06/09 22:40
トルシエ監督は1998年10月、福島県のJヴィレッジに日本代表、五輪代表両候補として総勢72人を招集して、日本で始動した。
その後の「W杯への道」は、苦難に満ちていた。
試行錯誤を経て、ようやく待望のW杯初勝利を日本にもたらした。
トルシエ監督がその間、徹底して教え込んだのは「プロとしての自覚」と「闘う姿勢」の維持だった。
そして若い選手に「積極的に世界に飛び出す」ことを勧めた。
フランスW杯後にイタリアに渡った中田英(現パルマ)に続き、小野(フェイエノールト)稲本(アーセナル)川口(ポーツマス)らが次々と欧州に挑戦し、西沢(C大阪)もスペイン、イングランドのサッカーを経験した。
ボーダーレス化が進む世界のサッカーに日本代表も一歩、近づいた環境で、今回のW杯に臨んだ。
前回のフランス大会からの連続出場は、土壇場で代表入りした中山(磐田)秋田(鹿島)の両ベテランを含めても8人。
23人中の大半が20代半ばまでの成長過程にある選手が占める。
数多くの選手を代表合宿に呼んだ同監督は、選手を競争させながら、結果的に大幅な世代交代も図った。
実質的に初めてチームを率いた98年バンコク・アジア大会にはU|21(21歳以下)代表で出場した。
このチームに小野、稲本のほか宮本(G大阪)戸田、市川(ともに清水)明神(柏)がいた。
故障で参加できなかった柳沢(鹿島)も加えると、当時のU|21代表世代から7人が今回の代表に入った。
このチームの骨格に、中田浩、小笠原(ともに鹿島)らを加えたメンバーを率いて99年世界ユース選手権で準優勝。
トルシエ監督は「2002年に大胆な野望を打ち立てられる」と自信を深めた。
00年の「監督解任騒動」を、その後の遠征でフランスに引き分けて乗り越えると、秋にはアジアカップで優勝。
両サイドとプレス守備の強化を図り、戸田(清水)らを新たに代表に加えて昨年のコンフェデレーションズカップで準優勝した。
日本サッカー界に新たな種をまき「約4年間の価値観を体現したチーム」(トルシエ監督)で大一番に臨んだトルシエ日本が、豊かな収穫を得た。
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