02/14 18:32

だれもがいつかは必ずこの時を迎える。
ソルトレークシティー五輪のリュージュ女子1人乗りに出場した小林由美恵選手(24)は13日、25位という成績を残し、競技生活にピリオドを打った。
1972年の札幌五輪で父・政敏さん(53)は2人乗りで4位、母・優子さん(51)=旧姓・大高=は1人乗りで5位といずれも入賞。
あれから30年のときが流れ、娘は引退を決意。
小林選手は発展途上国支援という新たな人生を歩む。
「気持ちよく滑れた。
満足しています」。
ゴール後の小林選手には、完全燃焼した晴れやかさがあった。
幼い頃、リュージュのコーチをしていた両親に連れられて、札幌五輪会場となった藤野競技場へよく足を運んだ。
父と母が活躍したステージ。
海外の選手との触れあい。
「オリンピックに出たい」。
小さな胸に、大きな夢が芽生えた。
1990年、小学6年で全日本選手権優勝。
それでも、当時の小林選手にとってはまだ「そり遊び」。
高校3年ごろから、98年長野五輪を目指し、本格的に取り組んだ。
初めての長野五輪は25位。
精神面をコントロールできずに残した、ふがいない成績。
「応援してくれた親にはかわいそうなことをした。
いい思いをさせたい」。
両親への恩返し。
この熱い気持ちが雪辱を期す原動力となった。
その後の4年の間に、新たな夢も生まれた。
「途上国の支援に携わりたい」。
オフの間に、旅をした。
フィリピン、ベトナム、タイ…。
見るものすべてが新鮮だった。
「人が力強く感じて、たとえ生活が貧しくとも、笑顔があった」。
遠征で触れる欧米とは違った空気を吸った。
今後は青年海外協力隊に入り、「スポーツを通して、子供たちに夢を与えたい」。
両親とリュージュが与えてくれた希望を、今度は自分が次の世代へ伝えていく番だ。
政敏さんと優子さんは、娘の最後の勇姿を、五輪会場で日の丸を振って見守った。
日本がリュージュに初出場したのが札幌大会。
政敏さんは「いい成績をと、国を挙げて育ててくれた」と振り返る。
今は、競技人口も少なく、自己負担も多いが「弱小団体で、力強く世界と戦った」。
満足そうにうなずきながら、娘の努力を評価した。
「リュージュだけが人生じゃないと感じたのでしょう」。
娘の成長を、しっかりとまぶたに焼き付けた。

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